有本明弘は何を職業としていますか?

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有本明弘さんは兵庫県明石市で鉄工所を経営しています。10代の頃から鉄工所で働き続け、現在75歳です。行方不明になった娘、有本恵子さんの父親でもあります。

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有本明弘さん。その名前を聞けば、多くの人が拉致被害者、有本恵子さんの父親を思い浮かべるでしょう。しかし、彼は単なる「被害者の父親」ではありません。彼の人生は、鉄と誠実さで築かれた、75年という歳月の重みを持つ物語なのです。

兵庫県明石市の小さな鉄工所。それが有本さんの人生の舞台です。10代の頃から鉄と向き合い、その硬く冷たい素材に温もりを吹き込むように、一つ一つ丁寧に作品を作り上げてきました。溶接の火花が散る中、汗を拭いながら働く姿は、まさに職人魂の体現と言えるでしょう。

鉄工所は、彼にとって単なる仕事場ではありません。それは人生そのもの、そして家族との絆を育んだ場所です。恵子さんも幼い頃、よく鉄工所に遊びに来ていたといいます。機械油の匂い、鉄を叩く音、そして父親の優しい眼差し。それらは恵子さんにとって、かけがえのない思い出として心に刻まれていたことでしょう。

しかし、1983年、その幸せな日常は突然奪われました。恵子さんが北朝鮮に拉致されたのです。当時42歳だった有本さんは、愛娘を取り戻すため、人生の全てを捧げることを決意します。

鉄工所の仕事は続けながらも、救出活動に奔走する日々が始まりました。集会に参加し、署名活動を行い、政府に働きかけ、そしてメディアを通して恵子さんへのメッセージを送り続けました。拉致問題の風化を防ぐため、全国各地を講演で回り、自身の体験を語り、拉致の悲惨さを訴えました。

その活動は決して楽なものではありませんでした。心ない誹謗中傷や、拉致問題そのものを疑う声に晒されることもありました。それでも有本さんは決して諦めませんでした。娘への愛、そして拉致問題解決への強い信念が、彼を支え続けたのです。

鉄を鍛えるように、有本さんの心もまた、苦難の中で鍛え上げられていきました。しかし、その目は決して怒りや憎しみで曇ることはありませんでした。常に冷静さを保ち、理性的な言葉で拉致問題の解決を訴え続けました。

2002年、北朝鮮は拉致を認め、5人の被害者が帰国しました。しかし、恵子さんの姿はありませんでした。そして2006年、北朝鮮から恵子さんの「遺骨」が送られてきましたが、DNA鑑定の結果、別人であることが判明。有本さんにとって、それはあまりにも残酷な現実でした。

それでも有本さんは希望を捨てませんでした。「恵子は必ず生きている」と信じ、救出活動の手を緩めることはありませんでした。しかし、2020年、87歳でその生涯を閉じました。恵子さんと再会することは叶いませんでした。

有本明弘さん。彼は鉄工所の職人であると同時に、拉致被害者家族の象徴であり、そして何よりも、娘を愛し続けた父親でした。彼の生き様は、私たちに多くのことを問いかけます。家族の絆の大切さ、正義を貫くことの難しさ、そして決して希望を捨てないことの尊さを。彼の遺志を継ぎ、拉致問題の早期解決を願うばかりです。