「おります」は謙譲語ですか?

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「おる」は「いる」の謙譲語であり、「おります」は丁寧語「ます」と組み合わせてより丁寧にした表現です。相手への敬意を示すために、目上の人に対して自分自身の行動や状態を控えめに伝える際に用いられます。自分をへりくだることで、相手への敬意を表現する効果があります。

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「おります」は謙譲語ですか?この問いに対する単純なイエスかノーという答えは、文脈を無視すれば不十分です。確かに「おります」は「いる」の謙譲語である「おる」に丁寧な「ます」形が付いた言葉であり、多くの場面で謙譲のニュアンスを含みますが、常に謙譲語として機能するとは限りません。その働きは、文脈、特に話し手と聞き手の関係性、そして発言内容によって大きく変化します。

まず、「おる」は謙譲語であることは間違いありません。しかし、「おります」は「おる」の丁寧形であり、謙譲の度合いは「おる」よりも高まります。そのため、単独で「おります」を見ただけでは、それが完全に謙譲語として機能しているかどうかを断定できません。謙譲語とは、話し手が自分を低く見せることで相手への敬意を表す表現です。よって、「おります」が謙譲語として機能するためには、話し手が自身の存在や状態について、相手に対して謙遜した表現を用いている必要があります。

例えば、「席におります」という表現は、相手への配慮を示し、謙譲語として機能します。これは、自分の存在を控えめに伝え、相手を立てる表現だからです。しかし、「会議室におります」といった文脈では、単なる事実の報告に近くなり、謙譲のニュアンスは薄れます。これは、状況が、話し手の謙遜よりも、情報伝達を優先しているためです。

さらに、話し手と聞き手の関係性も重要です。目上の人に対して「会議室におります」と言えば、謙譲のニュアンスが強く感じられます。しかし、同僚や部下に対して同じ表現を用いた場合、謙譲というよりは単なる丁寧な報告に聞こえる可能性が高いです。 言い換えれば、目上の人に対して使うことで、より強い謙譲の意味合いを持つのです。

「おります」が謙譲語として機能するかどうかは、文脈全体を考慮しなければ判断できません。 「私は会議室におります」と「社長は会議室におります」では、後者の方が明らかに謙譲の度合いが低いでしょう。「社長」という存在自体が既に尊敬の対象であり、話し手が社長の状況を報告する際には、謙譲よりも事実の正確な伝達が優先されるからです。

また、「おります」の代わりに「います」を用いると、より砕けた表現となり、敬意の度合いは低下します。「います」は事実を述べるだけのニュートラルな表現です。一方、「おります」は、同じ事実を伝えるとしても、より丁寧で、状況によっては謙譲のニュアンスを加えることができます。

結論として、「おります」は「いる」の謙譲語である「おる」を丁寧にした表現であり、多くの場合、謙譲のニュアンスを含みますが、必ずしも常に謙譲語として機能するとは限りません。その働きは、文脈、話し手と聞き手の関係性、そして発言内容によって決定されます。 単に単語だけを見て判断するのではなく、常に文脈を考慮することが重要です。 そのため、「おります」は状況に応じて、謙譲語として機能する可能性を持つ丁寧な表現だと理解するのが適切でしょう。